年度変わりの時期になり、身辺が慌しくなりつつある。内容が変化するのと同時に人的関係においても変化が起こり、また出会いと別れ──と言うほど大袈裟なものではないのだけれど──を経て、しかし結局何一つ心境的な変化はなく、日常として消化されていく予感だけが物寂しい。
この先も無為な関係を積み重ねていく徒労と、それが物質的に確認できないことへの畏れとが憂鬱を誘う。そう言えば雪が降った。
この先も無為な関係を積み重ねていく徒労と、それが物質的に確認できないことへの畏れとが憂鬱を誘う。そう言えば雪が降った。
バイト先に、夜中になると猫が来る。
その理由は同僚が餌を与えるからであって、それによって半分飼い猫みたいになってしまっていて、それはサービス業的に問題があるんじゃないかという考えと、個人的には別にどうでもいいという思いとがあって、結果、同僚が餌をやるのを黙認している。
猫は白黒のぶち柄の雄と、茶色がかった毛の雌で、同僚が餌をやり過ぎているのか、野良猫というには太りすぎな印象を受ける。
彼が餌を皿に盛って猫に与えた後、私は外に煙草を吸いに行った。やはり猫というものは可愛いもので(先述したように、やや太いのは否めない、猫というものはもっとシャープで研ぎ澄まされた肢体であるべきだと思うのだが……)、ちょっかいをかけるわけでなく、ただ餌を食べるのを見ているだけというのはいつものことだった。
ただ、その日違ったことは、餌をそっちのけで、雄が雌に覆い被さり……直接的に言ってしまえば交尾をしていたことだった。
そりゃあ猫だってファックもするわな。そういや俺もう何年ご無沙汰だっけなあ。お前ら餌たっぷりもらえてファックも出来て幸せそうだな。
と思ったところで、幸せというものは、他人からそう見えるか、もしくは、当人がそう感じているか、更には、当人が「そのような環境にある」かどうかとは全く関係がなくあるのかもしれないという考えに至った、何がどうであれ幸せであり、また幸せではないのではないか──幸せはそれ自体瞬間的なものであり、持続した何かとしての認識は不可能なのではないか?
そう考えられること、環境にあることが既に幸せなのではないか?
その理由は同僚が餌を与えるからであって、それによって半分飼い猫みたいになってしまっていて、それはサービス業的に問題があるんじゃないかという考えと、個人的には別にどうでもいいという思いとがあって、結果、同僚が餌をやるのを黙認している。
猫は白黒のぶち柄の雄と、茶色がかった毛の雌で、同僚が餌をやり過ぎているのか、野良猫というには太りすぎな印象を受ける。
彼が餌を皿に盛って猫に与えた後、私は外に煙草を吸いに行った。やはり猫というものは可愛いもので(先述したように、やや太いのは否めない、猫というものはもっとシャープで研ぎ澄まされた肢体であるべきだと思うのだが……)、ちょっかいをかけるわけでなく、ただ餌を食べるのを見ているだけというのはいつものことだった。
ただ、その日違ったことは、餌をそっちのけで、雄が雌に覆い被さり……直接的に言ってしまえば交尾をしていたことだった。
そりゃあ猫だってファックもするわな。そういや俺もう何年ご無沙汰だっけなあ。お前ら餌たっぷりもらえてファックも出来て幸せそうだな。
と思ったところで、幸せというものは、他人からそう見えるか、もしくは、当人がそう感じているか、更には、当人が「そのような環境にある」かどうかとは全く関係がなくあるのかもしれないという考えに至った、何がどうであれ幸せであり、また幸せではないのではないか──幸せはそれ自体瞬間的なものであり、持続した何かとしての認識は不可能なのではないか?
そう考えられること、環境にあることが既に幸せなのではないか?
友人の父親が死んだというので通夜に行く。
滞りなく厳粛に進むそこにあったのは、死それ自体が何の意味ももたないということであり、死に意味付けがなされていくその瞬間だった。
死は経済活動の一部として既に取り込まれ、個々人が受ける感傷は儀式の中で画一化され無意味化される。現実を修正しなければならない関係者に起こるものはそれとはまた別種の問題ではあり、そこに自分も心を痛めるところは大いにあるのだが……。
仮に、自分が死んだ時、そこに意味は付加されるのだろうか?
滞りなく厳粛に進むそこにあったのは、死それ自体が何の意味ももたないということであり、死に意味付けがなされていくその瞬間だった。
死は経済活動の一部として既に取り込まれ、個々人が受ける感傷は儀式の中で画一化され無意味化される。現実を修正しなければならない関係者に起こるものはそれとはまた別種の問題ではあり、そこに自分も心を痛めるところは大いにあるのだが……。
仮に、自分が死んだ時、そこに意味は付加されるのだろうか?
Everything is gone, nothing is mine.
2005年5月27日 日常何もないのは明らかなのにも関わらず、何かがあるように見えてしまうのは何故だ。
個人が持てるものの総量など大したものではないと自己から引き出してきた結論を他人にまで当て嵌めて考えてしまうのは何故だ。
何も持っていないことを熟知していながら何かを持っているように見せかけさせるようにあるものとは一体何なのだ。
何かを所有するとは一体どのような関係性なのだ。
個人が持てるものの総量など大したものではないと自己から引き出してきた結論を他人にまで当て嵌めて考えてしまうのは何故だ。
何も持っていないことを熟知していながら何かを持っているように見せかけさせるようにあるものとは一体何なのだ。
何かを所有するとは一体どのような関係性なのだ。
人間一人の持てるものの限界は思っていたよりもおそらくは少なく小さく、そして持てる限界一杯まで持とうとしている人間の絶対数は非常に小さいものの筈なのだ。その中で形成される関係性に何を恐れる必要があるのだろうか、その関係性は見かけ以上に持つ物のない者の間に浮かび上がる虚像にすぎないのではないか? 関係性を通じて自己のあり方を知るのだとして、またそれに対する恐怖があるのだとしても、その恐怖を知覚できるものは存在しない。私が私の恐怖に気付けないのと同じように他人は私の恐怖に気付けず、そしてそれと同じように私は他人の恐怖に気付けないからだ。
そして現実には、関係性に対する恐怖を感じるより先に、習慣化/規範化されたやり方が関係性が成立する可能性を片っ端から潰していく。そのやり方には自己は何一つ関わらず、為された結果から自己を後付けで規定するような形式として成り立っている。それを突き進めるのは妥協であり無知であるのだ、しかし必ずしも妥協が努力に劣り、無知が知に劣るわけではない、と言うのはそれすらもが結果的にしか規定されないような仕組みが既にできあがってしまっているからなのだが。
そして現実には、関係性に対する恐怖を感じるより先に、習慣化/規範化されたやり方が関係性が成立する可能性を片っ端から潰していく。そのやり方には自己は何一つ関わらず、為された結果から自己を後付けで規定するような形式として成り立っている。それを突き進めるのは妥協であり無知であるのだ、しかし必ずしも妥協が努力に劣り、無知が知に劣るわけではない、と言うのはそれすらもが結果的にしか規定されないような仕組みが既にできあがってしまっているからなのだが。
"Is Life Delicious?"
2005年5月15日 日常依然として続く不可解な幸運/不運と同時に起こり続ける出来事との折り合いがつかない。
それが本当に必要なのかどうかもわからない。
人生なんてこんなものだという甘い見解と、人生とは先の見えない闇だという考えとが同居する思考、その思考から積まれていく時間の所産は一体どんな形でありうるのだろうか?
それは精神に直接的ではなく間接的な影響を与えられる何かであれるのだろうか?
空虚な、実体のない言葉を吐き続けることとは、何だ。
それが本当に必要なのかどうかもわからない。
人生なんてこんなものだという甘い見解と、人生とは先の見えない闇だという考えとが同居する思考、その思考から積まれていく時間の所産は一体どんな形でありうるのだろうか?
それは精神に直接的ではなく間接的な影響を与えられる何かであれるのだろうか?
空虚な、実体のない言葉を吐き続けることとは、何だ。